ガラス工芸作家・山田えい子主宰 宝塚すみれギャラリー

わ・た・し・の旅ガラス

光と影 〜ルーマニア編〜

成田から地を離れて12時間、パリからブカレスへ - 機上時間もルーマニアの歴史や経済、民族性や生活の勉強は学生時代の一夜付けを再現しているようで、18時間の空の旅も、長くは感じなかった。 ルーマニアは日本の本州とほぼ同じ広さで、温帯地方特有の四季変化の有る気候である。 昨年、初めてこの地に降り立った時は厳寒の冬。ルーマニアの約400年間に亘るトルコ支配や列強の干渉などにより、ルーマニアの自由な発展が阻害された事も影響し、市民社会は発達せず中産及びインテリ階級の伝統が未だに不足している。その歴史を物語るような鉛色の空が天空のすべてを覆っていた。しかし、私の気持ちを引き締める寒さと、眩い純白の雪景色が印象的であった。

今年のこの地は春。 ルーマニアの大地は、日本の喧騒から私を解放してくれる。 飼葉(かいば)を積んだ馬車の荷台には数人の高らかな笑い声。コウノトリの巣の下では羊飼いの男が限りなく広がる穏やかな景色を眺めている。器用な国民で、かつ辛抱強く陽気で人なつこく素朴で親切。 45年間に及ぶ共産主義政、特に24年間のチャウシェスク政権下での抑圧と耐乏生活の結果、上からの指令への慣らされで、1989年12月の革命後もそのメンタリティーは変化していない。そのため経済改革と民主化のテンポを遅らせている。日本から500億円の経済援助もルーマニア、ハンガリー、ドイツ、ロム(ジプシー)ウクライナ、セルビア、ユダヤ、ブルガリア、トルコ、アルメニア人など20近くの民族下では中々成果が上がらないようである。

都心部から程遠くないこの地にガラス工場がある。 都心部を中心に英語、フランス語が通用するので市街地は助かるが、工場内はルーマニア語が通用している。しかし同業者とあって、英語、フランス語を交えながら身振り手振りの説明で、殆んどの作業が順調に捗るのが嬉しい。

日本の工場で、私の師である竹内洪先生(サンドブラストの世界的権威)の作品制作を半日ほど見学させてもらった事があるが、多くの工場へ出向くたびに師の技術の高さを痛感する。 ルーマニアは色ガラスの原料輸入も難しく、師の十数種の色を溶解するまではいかないが、外被せ(そとぎせ=色ガラスで表面を薄く覆う)技法は見覚えがある。 工場ではガラスカレット(ガラス粒)の配色やカンナ(ガラス棒)の生地巻きなどの下準備をする傍ら、優しい職人達から吹きガラスの指導を受ける。 私の吹製したモノが上手に出来た時は多くの職人が拍手と共に、大きな歓声をあげてくれるのはルーマニア人の人なつこい性格である。

ドナウデルタと呼ばれる黒海沿岸は、その昔、ロシアからローマンガラスが伝わってきた所である。それが、ルーマニア人の職人の手によって技法が研究され、被せガラスが作られたのではないか。ガレの工房には、多くのルーマニア人の職人が働いていていたと云う。彼らの手を借りてガレはあのような素晴らしいアールヌーボーを代表するガラス作品を生み出したのではないか。 まさにガレの外被せ技法のルーツはルーマニアにあったのか。

「Eiko, この色どう思う?」はにかんだ表情で、マノーユは語りかける。今、私はルーマニア人のガラス作家マノーユ・イワンと協力して作品を作っている。彼はブジョーという町に工房を持っている。 私のオフィスのあるブカレストから、車で一時間程のところ。 今回の目的は、ルーマニア中世の深淵な色彩と、日本の感性との融合である。 今年は日本各地のデパートで、それらの作品をご覧いただく機会を作りたいと思う。 ドナウ川のゆったりとした流れの畔、レストランでの赤ワインがスケッチブックに綺麗な曲線を投影している。 あと二日でパリ行きの機上の人となる。